
かつて私たちは、山と畑と古墳に囲まれた芸術系の大学に通っていた。 まだスマートフォンどころか、ケータイ電話さえみな持っていなかった時代の昔話である。
今はそうでもないが、二十年ほど前の大学周辺は学生アパートとわずかの民家しかなく、夜になると、あちこちに真っ暗な闇があった。
鼻をつままれてもわからない、と思うほどの闇である。 そこにある学生アパートに後輩のM君が住んでいた。
夜の十時もまわった遅い帰り道。てくてくとアパートに向かって闇の道をひとり歩いていると、アパートの前にある電話ボックスの明かりが見えてきた。なおも歩いていると、その電話ボックスの前に、隣の部屋に住んでいるD君がぽつりと立っているのが見える。ただ、ボックスの中には誰もいないので、(あいつなにしとるのやろ)と、ちょっと不思議に思った。どう見ても、D君はボックスが空くのを待っているように見えたからだ。 M君はそのままボックスとD君を尻目に通り過ぎ、アパートに戻った。そして共同の洗面所で手を洗っていると、D君が戻ってきた。
「なっがい電話やわ、あの女、ええかげんにせえよ」と、しきりにボヤいている。 「ああ、やっぱりお前、電話待ってたんか」と聞くと、「そやねん、もう三十分以上も話してるんやぞ、あの女。腹たったからガンと電話ボックス、蹴とばしてきたった」と鼻息が荒い。
「いやな、俺、不思議に思ってたんやけどな、あれ、誰も入ってなかったで」と言うと「どういうこっちゃ?」とD君が聞き返す。
「だから、カラの電話ボックスの前に、お前ずっと待ってたんや」 「えーっ、なに言うてんねん、おったやないか、髪の長いジーンズはいた女が!」
「いや、ほんまにボックスの中、カラやったって。第一やな、こんな時間にまぁ女の子が電話せんとも限らんけど、男子寮しかまわりにない、あんな暗い中の電話ボックスに、女の子たったひとりいうのんは、おかしいで。だいたい電話ボックス蹴ったとか言うとったけど、その時、その女どうした?」と聞くと、
「そういえば、ビックリするとか、すみません、とかいうリアクションもなかったな。ずっと向こう向いたまま平然と話してやがったわ」と、はじめてD君が首をかしげた。