
伊勢湾に面した中河原海岸。そこは遠浅で波が低いことで有名な海岸なので、海水浴場として人気が高いエリアだった。
1955年のある快晴の日、津市立橋北中学校の生徒約500名と20名以上の引率教師が、この海岸を訪れていた。その日は天気が良いことはもちろん、風もあまりなく絶好の海水浴日和だったという。教師たちも天候が良く、波の低い海なため安心して生徒たちを海水浴に送り出せたそうだ。
しかし、事件は起こってしまう。午前10:00頃、突如として大波が発生して女学生45名を飲み込んでしまった。彼女たちは水面から波にどんどん飲み込まれていき、海底へと打ち付けられてしまう。飲み込まれた女学生のうち36名が亡くなってしまうという大惨事となった。新聞やテレビなどでは大々的に報道され、教師たちの業務過失も問題しされたが、もともと安全な海であり当日の天候も良かったため責任は問われなかった。
実はこの中河原海岸はいわくつきの海岸なのだ。1945年アメリカ軍がこの周辺を空爆した時に海岸へ逃げてきた100名ほどの人が大波に飲まれてなくなってしまったことがあったのだ。しかも情勢が情勢だけあって、彼らの遺体は海岸で焼かれ遺骨は砂浜に埋められたという。なので、中河原海岸には実は第二次世界大戦時に不遇の死を遂げた人々の遺骨が埋まっているのである。
前述の「女子学生集団水難事故」で生存した女学生の取材をした『女性自身』(1963年7月22日号)には驚愕のインタビュー内容が収められていた。
「頭に、ぐっしょりと水を吸いこんだ防空頭巾をかぶり、モンペをはいた何十人という女性が、こっちに向かって泳いできた。夢中で逃げようとする私の足がそのひとりの女性の手につかまれた。薄れていく意識の中で、足にまとわりついた防空頭巾姿の女性の白い無表情な顔を見つづけていた」
「泳いでいると、数メートル先で、何名かの女子が悲鳴を上げながら溺れ始めた。驚いて助けを呼ぼうと、海岸のほうへ向きを変えて泳ぎ始めた足に、何か冷たいものがからみついた。海草だと思って振り払おうと何気なく見ると、なんと人の手だった。しかも、海底の暗がりの中からその人の手は次々とのびてきて、足をつかもうとしていた。さらに恐ろしいものが見えた。無数の人の手の向こう側に防災頭巾をかぶったたくさんの顔が見えたのだ。そこで気を失い、気づいたときは救助された後だった」
彼女たちは大波に飲まれたショックで幻覚を見てしまったのだろうか。それとも第二次世界大戦時に不遇の死を遂げた霊魂が彼女たちを海へ引きずり込んでしまったというのだろうか。真相は闇の中だ。